演出家へのインタビュー
これは2016/2/9、2/10に上演された「かげろうー通訳演劇のための試論ー」の際に配布された当日パンフレットに収録したインタビューです。 ぜひ読んでみて下さい。
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演出家・濵中峻は、東日本大震災による被害を受けた久之浜大久地区に通いながら本作を生み出した。インタビュー、映像、パフォーマンスが混在した舞台について、また被災地を扱うということや活動を続ける地域のこれからについて話を聞いた。 * 聞き手・朝比奈竜生 (ドラマトゥルク) 本作「かげろう」は被災地「久之浜」を扱ったドキュメンタリーパフォーマンスということですが、初演は2014年12月、2015年には福島映像祭で既に再演もされていますね。そもそもなぜ、久之浜についての作品を作るようになったのですか? きっかけはやはり、2011年3月11日に起きた東日本大震災です。私がまだ学生の頃に3.11が起きました。その日は友人の展示の手伝いで横浜にいたのですが、大きな揺れと津波の報道、続いて起きた福島第一原子力発電所の事故には大きなショックを受けました。その後、学生として建築を勉強しながら被災地に何かできないかと思い、建築の恩師と今の職場の上司、友人たちと共に少しずつ被災地の支援を開始します。その中で「被災地の復元模型をつくろう!」という話があって、当時、立ち入り禁止区域ぎりぎりにあった福島県いわき市久之浜大久地区の模型をつくることになったんですね。模型ができて、先生がTwitterにその写真をアップしたら、現地の方が「それぜひ持って来てください!」という話になりまして。模型をつくったメンバーが何人か現地に行ったんです。そこで出会った地元の方や他の支援団体の方々と一緒に活動をするようになり「久之浜大久地区の今の問題を解決することと、30年後のまちづくりに貢献すること」を目的とした「久之浜大久地区まちづくりサポートチーム」が生まれました。私はその団体で今日まで様々な活動を続けています。 また私自身、震災前より地域の記憶を扱ったアートワークを展開していました。そういった背景もあり、久之浜大久地区で活動しながら「何かここに表現しなければならないもの、創るべきものがある」という予感はずっと持っていて。最初は特に海の問題が深刻だと感じていました。原発から漏れた汚染水によって沿岸漁業に取り組んでいた漁師が休業を余儀なくされていたんです。再開の時期もわからないままで。その問題意識もあって、本作の前に漁師のインタビューで構成した15分くらいのパフォーマンスもつくっています。 そんなある日、高木京子さんに出会います。彼女は津波でご主人、高木芳夫さんを失いました。芳夫さんは市議会議員を務めていて、町のために必死に活動されていた方なんです。だから町の人にとても頼りにされていたんですね。京子さんの語りを聴いていると、時に彼女の声は、芳夫さんの声でもあり、町の誰かの声でもあって、なんというか、和声的に聞こえたんです。でもそれは特殊なしゃべり方をしているわけじゃなくて、とても素朴な彼女の語りで。もしかしたらここから色んなことが聞こえてくるかもしれない。そんな予感がして京子さんのモノローグから作品を作ろうと思いました。 濵中さんはこれまで映像作品やインスタレーションなども発表していますが、本作ではなぜ舞台芸術の形式をとったのですか? 端的に言えば「そこに人が必要とされるから」です。 被災地はこれまでに国内外へ多くのメッセージを伝えてきました。私も当初はその多くをテレビ放送やインターネット、シンポジウムを介して東京で受信していたのですが、実際に現地に通うようになって目の当たりにしたのは、そこに生きる人の目の力、声の力、表情の力。それから言いようのない空気感であり、賑やかさ、それから沈黙でした。私はこういった町のイメージをどのように扱うべきかと考えたときに、そこに視る人、聴く人というか、ただそのイメージの中なのか、前なのか、とにかくそこにいる人が必要になるんじゃないかなと思ったんです。たとえ声がなくても語る身体が必要というか。例えば沈黙は「音がない」のではなく「人が黙っている」ことで現れてくる現象で。そういった、人の息づかいや佇まいを通して京子さん、久之浜の声が聴こえてきたらいいなと思っています。 この作品ではどのような問題を扱っていますか? 様々な問題が扱われていますが、一つ挙げるなら、継承の問題でしょうか。 継承する、しないじゃなくて、継承の可能性、不可能性について、この作品を通して考えられると思います。 この作品で語られるのはすべて京子さんの言葉であり、俳優はイヤホンやスピーカーからリアルタイムに流れる京子さんの声の通訳を担っています。俳優は京子さんではなく、またこの物語の当事者でもないんです。 私は本作に取り組むまで「当事者」と「非当事者」の二項関係の距離で物事を測っていた部分がありました。例えば「私は被災者じゃない」という立場。被災者か、そうじゃないかという点で明らかに違いがあり、それは今も同じです。特に現地で活動をはじめた当初はその距離感からくる緊張、というか、強ばりがかなりありました。でもこの作品を上演していく中で、段々と別のものが生まれてきて。舞台には舞台の当事者性があるんです。俳優は舞台以前には非当事者であっても、舞台の上には何か別の、それも全く別ということではなく地続きになったところで別の当事者になるような。「人が他者から何かを継承する」というのはこのあたりにヒントがありそうな気がしています。 500年の時を越えて上演されるシェイクスピアやチェーホフのことを考えると、元々演劇が持っている力のようなものでしょうか。いつかの誰かを、いまここにいる人を通してみる営み…。 この作品もその演劇の力に支えられているように感じます。
今回、英語で作品を発表するのも海外の人に伝えたい、継承したいと思ったからですか? 先ほどの話に戻りますけど、私自身、最初に久之浜町や福島と距離を感じていましたし、緊張を覚えていました。でも作品の上演を通して、お客さんとその距離を共有してきた実感があります。多分、この作品は久之浜や福島を伝えるためだけに作ってはいないんです。むしろその空間、現地の映像が流れていて、声が聞こえ、俳優が佇んでいる空間としての『久之浜』にただただいるために作っていて。そこでお客さんに何を感じてもらえるかが重要だと考えています。 そして、この空間は舞台である以上、移設可能です。どこかへ持っていける。 その時に福島から距離を感じていた私が、作品の上演を通して何かを見つけ、強ばりが少しずつ解けていったように、福島から遠く離れた海外の人が『久之浜』を感じることができればいいなと思っています。 それからこれは極個人的な気持ちですが、京子さんのインタビューを受け取った時にできるだけ遠くまで届けようって思ったんですね。それは空間的にも遠くだし、時間的に遠くまで届けようと思いました。 遠くと言っても「では、どこへ届けよう?」と。私はいつも東京から久之浜に通っているんですけど、この東京ー久之浜の往復以外にどんなことがあるかなぁと久之浜で考えていた時に、久之浜からは綺麗な海が見えるんですよ。太平洋が。「あ、こっちに行くのはどうだろう?」って思いました。日本において海の壁は言語の壁とも言えるじゃないかなと考えていて、じゃあ、この海に出るには、言語を持たないといけないなぁと。そういった個人的な動機もありました。 久之浜での活動について将来的にどのような活動をするつもりですか? これは久之浜に限らず、様々な地域が抱えている問題だと思うんですけど、 一つは、震災による影響をはじめ、人口減少(今の日本は東京を除いてほとんど全てが人口減です)や高齢化などにより自分たちの文化が守り切れなくなっていく中で、地元住民は戦っている。私は久之浜大久地区まちづくりサポートチームのメンバーとして引き続きそれを助けていきたいです。 もう一方で、一個人としては、いかにして久之浜大久地区が「他の文化について考えることができるのか」という問いを持っています。 久之浜大久地区をはじめ、福島の方々は震災で世界中のいろいろな方々に助けてもらったことに感謝しています。感謝の気持ちを伝えたい、恩返しをしていこうという声もちらほら聞きます。その姿勢は世界各国で様々な問題が起きている中、福島から何か前向きなメッセージをもたらす可能性があり、とても大切で意義深いことだと思っています。ただ皆さん、日々の生活があまりにも大変で、とてもそこまでできない。それに具体的にどうすればいいのかもわからない。場合によっては、感謝の気持ちよりも孤独や不安、生活の大変さが上回って、それを忘れてしまうようなケースもあります。これは仕方のないことです。 ですから、まず『私が久之浜にとっての他の文化について考えるための体力になろう』と考えています。「一緒に考えよう」と他人の意識を促すんじゃなくて、まず考える体力がある場所にしようと。考える機会が少しでも増えるようにできたらなと思っています。場所は無理なら、自分がその体力を持って久之浜に関わり続けようと、そんなようなことを意識しています。「考えても考えなくてもいいけど、いつでも考える準備ができてるぞ〜」というか。 そんな大まかな指針のもと、私個人としては具体的に準備を始めたいことが2つあるんですね。あくまで私の個人的なビジョンですが。 まず「海外アーティストの久之浜をはじめとする福島でのリサーチのサポート」です。久之浜大久地区まちづくりサポートチームでは、2015年から若手が中心となって映像アーカイブの作成を開始しました。刻一刻と変わっていく久之浜を記録で残していく試みです。本作はそのアーカイブを活用して生み出されています。このアーカイブは二次利用可、商業利用化としており、世界中どんな人でも活用できるリソースです。今後も追加で記録していきます。また今までそういった実績はありませんが、もし外部から依頼があれば撮影に協力することも考えられます。 他に、サポートチームのメンバーが長い年月をかけて積み上げて来た信頼関係に基づいた地域住民とのネットワークがあります。もし海外の方で福島のことを知りたい、福島から何か表現したいという要望があれば、何かしらの協力が提案できるかもしれません。 もうひとつは「こまばアゴラ劇場との連携した国際プロジェクトの運営」です。 私が所属している青年団は、こまばアゴラ劇場を拠点として活動しています。この劇場は非常に多彩なプログラム、サポートを数多く設けており、本作もこまばアゴラ劇場の稽古場で創られました。青年団員は既に福島で公演はもちろん、ワークショップを行ったり、多くの実績を残しています。こまばアゴラ劇場と連携をさらに深め、劇場を拠点に国際的なプログラムやプロジェクトを生み出し、福島、久之浜へ紹介できればと思っています。 繰り返しになりますが、どれもまだビジョンの段階です。この公演を機会に何か次に繋がる出会いがあればいいなと考えています。